水の如く 49 あばれ太鼓

文聞亭笑一

軍師官兵衛もいよいよクライマックス、関が原の戦を迎えます。

戦闘の詳細は、歴史好きの皆さんならよくご存じの通りです。布陣だけ見れば、誰が見ても「西軍の圧勝」という構図ですが、結果は逆に出ました。三成憎し…の念に一致団結していた東軍に対し、それぞれの思惑が絡み合い、疑心暗鬼に陥っていた西軍とでは「組織」としての力に大きな差が出ました。このあたりが「人間集団」の動きに大きな差を生みます。このことは現代の組織活動、その代表である企業活動にも同じことが言えます。

更に、政治という分野にも適用できます。

事をなすは人にあり 人を動かすは勢いにあり 勢いを作るは、また人にあり

維新の英傑の一人、勝海舟の言葉ですが、まさに「事」に臨んではこの言葉の通りだと思います。「全社一丸となって…」などとよく耳にしますが、一丸となれば計算以上の力が出ますが、組織内の思惑が乱れれば、人数の総和の半分も力が出せません。

孫子は敵味方双方の優劣を見るに「道、天、地、将、法の5つを吟味せよ」と教えます。

大義、天の時、地の利、指揮官の力量、軍律の徹底度合のことです。

家康の東軍と、三成の西軍。どちらも掲げる大義は「秀頼様の御為」です。

気象条件、どちらにも平等に霧がかかり、相手の動きが見えません。

地の利、これは圧倒的に西軍が有利でした。山の上に陣取る西軍に対し、東軍は谷底のような平地に陣取っています。山から見下ろせば敵の動きは一目瞭然です。この陣形を見て、後世の戦術家は「西軍の圧勝」と判断したのですが、残る二つの要素を見ていません。

双方のリーダ、将である家康と三成の力量の差、……これは、比べ物になりません。

あまたの戦場で修羅場をくぐってきた家康と、戦場での後方支援と水攻め、兵糧攻めしか経験のない三成では、白兵戦になった時の判断のタイミングに大きな時間差が出ます。戦闘と言うものは体育会系の瞬時の判断です。サッカーで、どこにパスを出すかの判断、 テニスでフォアを狙うかバックを突くかも同じこと、とっさの勘が勝負を分けます。

三成配下には島左近という優秀な参謀がいましたが、陪臣である左近の号令で、毛利や島津が動くはずがありません。また、左近が瞬時に判断したとしても、三成が逡巡したら…チャンスは待ってくれません。刻々と状況が変わります。

更に軍律、軍としての統一性では、三成と生死を共にする覚悟をしていたのは宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長くらいなもので、島津、長曾我部などは「お手並み拝見」と高みの見物です。更に、毛利軍の重鎮・吉川広家は「不戦」と決めています。万が一、西軍が勝ったら、その時は家康の首だけ狙って火事場泥棒を働くつもりでした。

これは…事前に黒田如水と打ち合わせていたことです。

家康は如水の目論見を察知していたから、秀忠の軍を「わざと遅刻させる」手を打ったのではないか。…というのが最近の推論です。(風の如く水の如く…安倍龍太郎)

虚々実々の駆け引き…野党共闘も中々上手くいきませんね。西軍のようです。

193、官兵衛は<博奕(ばくち)のできぬ男に勝利なし>という哲学を持っている。
それは、亡き竹中半兵衛から受け継いだものであり、秀吉の中国大返しの際もいかんなく発揮された。
目先の小さな損得に一喜一憂しているようでは、所詮、人は大事をなし得ない。

如水の計画は壮大でした。戦が長引くと読んで、その間に政治工作を仕掛け、いずれは勝つであろう家康の対抗馬になる。そして家康包囲網を九州、中国からと奥州から縮めていき、隠居させて家督を結城秀康に譲らせる・・・というのですから大博奕ですよねぇ。

関が原で、わずか一日で勝負が決してしまったのは痛恨の読み違いですが、ここで夢を捨てては今までのことが裏目に出かねません。如水の意図を家康が感づいたとしたら黒田家の浮沈にかかわります。

♪ やると思えばどこまでやるさ それが男の意気地じゃないか

古い浪曲調の歌謡曲ですが、なんとなく…この時の如水の心境にぴったりです。

194、勝負を決したのは、小早川秀秋の寝返りと、吉川広家の内応であり、それを謀ったのが自分であるので、総大将の家康から手を握られ、大いに感謝されたと、長政が鼻高々に自慢していた。
「愚か者め」如水の目論見を根底から崩したのが、徳川に忠勤をはげむ己が息子の働きであったとは、運命の皮肉というしかない。

関が原の戦は、小早川秀秋の寝返りで勝負が決したと言われます。確かに、小早川勢が松尾山から、麓に陣している西軍諸隊の背後を突いたことで西軍の陣形が大きく乱れました。予備軍として控えていた大谷、脇坂、朽木、小川などの軍は西軍の予備軍として健在でした。三成にすれば、中央で四つに組みあっている宇喜多と福島の戦闘に横槍を入れるための兵力です。小早川を先頭に彼ら予備軍が前線に参加すれば、間違いなく福島隊は崩れたちます。更に、石田隊、小西隊と激戦中の黒田、細川を襲えば東軍の前線は壊滅できたでしょう。小早川の軍が山を下り出すのを見て、石田三成は「よし、やった」と手を打ったと思います。……が、その矛先は味方の大谷隊に向かっていました。三成には信じられない光景だったと思います。

小早川秀秋…優柔不断な裏切り者として後世の評判は良くありませんが、この時、まだ18歳の若者です。高校3年生です。これほどの重大な決断を迫られたらパニックに陥るのが普通です。ましてや初陣のようなものですし、家老は東軍派ですが、西軍の軍監が見張っています。相談相手がいないのです。気の毒でしたね。

しかも、寧々の甥に当たりボンボン育ちで、いわゆる優等生ですから戦争のような喧嘩沙汰に向いていません。小早川に養子に出されたがために・・・過酷な判断を強いられました。後に精神を患って早死にしますが…気の毒な人生でしたね。

195、豊後一国の平定を果たした如水は、軍勢を北に向けた。10月13日豊前小倉城を落とし、さらに筑前秋月城、筑後久留米城を開城させた。
その後、肥前の鍋島直茂、肥後の加藤清正と合流して立花宗茂の籠る柳川城を囲んだ。

小倉城は九州の玄関口です。如水がその構想の下に中央に乗り出すには、何が何でも手に入れておかなくてはならない重要拠点です。小倉城主・毛利勝信は関が原で敗れています。留守の者たちは抵抗すらできません。秋月は小早川の支城、久留米も同じく小早川の城、これを従わせます。怒涛の勢いで柳川に迫り、清正や鍋島と協力して柳川城を囲み、得意の説得力で立花宗茂を味方に加えてしまいます。

この時点で如水軍に加わった鍋島家ですが、実に強かです。天下分け目の戦いでどちらが勝っても生き残ると、親子兄弟が東西両軍に分かれたのは信州真田家が殊に有名ですが、鍋島も同じことをしています。息子の光茂を西軍として関が原に向かわせ、親の直茂は如水軍に加わって西軍を攻めています。ある意味では、これが当時の常識だったのでしょう。

例は枚挙にいとまがありません。伊達政宗は西軍の上杉を攻めるふりをして、関が原の結果いかんでは東軍の最上を攻める準備をしていました。前田利長も、息子には西軍の越前を攻めさせ、自らは東軍の越後の堀を攻める支度をしていました。

虚々実々・・・それが戦争であり、外交です。ウクライナ、中東、…紛争の関係国は、どちらが勝っても権益を得ようと、強かに裏工作をしています。清く、正しく、美しい国などありませんねぇ。秀吉の言葉通り…「夢のまた夢」の世界です。

196、立花勢を加えた如水軍は肥後を南下し、西軍方の敗将となった小西行長の宇土城を接収し、島津攻略のためさらに九州を南下した。薩摩との国境に近い水俣まで来たとき家康からの書状が届いた。
「寒気に及ぶので、島津討伐は明春になされるがよかろう」

これは・・・家康からの停戦命令です。逆らえば家康を敵に回します。

この時、薩摩の島津は家康に詫びを入れ、かつ、如水の南下を阻止するように懇願していました。いわば無条件降伏に近い形です。

太平洋戦争の末期、日本はロシアの南下に驚き、米軍に無条件降伏をしましたが、それに似ていますね。なりふり構わず、哀願してでも、如水軍の侵略を怖れたのです。

なぜそれほどに恐れたのか? 多分、如水の軍の主力をなす浪人者たちが、かつて島津が九州全土を制圧しつつあった時に潰され、身内を殺され、流浪した、島津への怨恨を持った者たちだったからでしょう。彼らが薩摩に乗り込んで来たら、何をされるかわからないという恐怖感があったのだと思います。因果応報と言いますが、かつて制圧した相手からの苛烈な報復を恐れたのではないでしょうか。

かくして官兵衛、如水の天下取りの夢は終焉を迎えました。