乱に咲く花 47 大日本帝国憲法

文聞亭笑一

楫取と美和は、群馬県の文明開化のために東奔西走、大童ですが、中央政府は熊本の神風連の乱に始まり、薩摩士族の引き起こした西南戦争に至る国内騒乱の鎮圧、で国庫が空っぽになるほどの苦境に立ちました。

明治政府というのは発足以来、金がありません。幕府を引き継げば資金どころか借金の山ですから幕府の借財は棒引き…というか、踏み倒しですね。しかし、諸外国からの借金はそうはいきません。これを踏み倒すような暴挙に出れば、直ちに戦争を仕掛けられて沖縄、北海道はおろか国内のあちこちに租借地というか、領土を奪われかねません。

最初にやった手は税制改革で、物納を辞めさせて金納にしました。無税であった河川敷や荒れ地なども税金の対象にして、国民から税を巻き上げます。貿易の関税は当然として、いかに税を吸い上げるか…これが最重要課題でした。

そう言う点で辣腕を振るっていたのが大久保利通であったのですが、国民のあらゆる階層から嫌われましたね。その結果として暗殺されてしまいましたが、曲がりなりにも日本が国家として存続しえたのは大久保がやった改革のお陰であったのは事実です。

いつの世でも、「ない袖は振れぬ」という鉄則があり、「金の切れ目は縁の切れ目」なのです。財政の裏付けがない、耳触りの良い政策というのは絵に描いた餅です。数年前に政権を取った民主党が私たちにもそれを見せてくれました。「学べば学ぶほどわかった」などと言いますが、学ばずとも・・・当たり前のことなのです。与党内では消費税の増税と軽減税率の話で意見が分かれているようですが、赤字財政がますます悪化するのは非常事態です。人気取りの政治家や、政党の主張は国家経営を考えていない「たわごと以下」でしょうね。

今週の舞台は明治12年ごろかと想像しますが、西南戦争の結末で「武力闘争」の幕は下ろされました。「最強」と言われていた薩摩士族が農民兵を中心にする足軽以下の新政府軍に完敗してしまいました。政府軍の最新鋭兵器と洋式軍隊に、武力で対抗することは不可能であることを、全国民が思い知らされたと言って良いでしょう。

そうなると、反政府の勢力は言論の世界で対抗するしかありません。

自由民権運動・・・これこそが唯一の対抗手段です。

「板垣死すとも自由は死せず」板垣退助が暴漢に襲われた時、発したというこの言葉はあまりにも有名ですが、この運動は組織だって行われていたわけではありません。

もともと新政府の中心にいた板垣退助などの土佐藩出身者が、大久保の進める改革路線と意見が合わず、徐々に締め出されていき、反撃の合言葉として「自由民権」というスローガンに行きついたものです。土佐藩は、維新当初には後藤象二郎、板垣退助を中心に薩摩、長州と肩を並べる力を持っていました。それが…力を失っていった理由は「思い違い」にあったのではないかと思われます。後藤にしても、板垣にしても「玉を握る」「玉を握れば天下が取れる」と勘違いしていたものと思われます。「玉」とは天皇のことですが…土佐藩は宮内省を抑えました。宮内省は土佐藩出身者で埋め尽くしました。が、それだけで政治が動くものではありません。天皇は参議たちが合議して決めた政治方向を承認するだけの存在です。明治天皇も現在の天皇同様に象徴天皇と変わりありませんでした。その点では平安時代以来、西洋の皇帝とは違う存在です。自ら発案し、自ら指示するということはありません。

しかも、政治的なことは土佐出身者が提案しますが、天皇の取り巻きには公家出身者が大勢いて、伝統的手続きは公家を通してでないとできません。ですから土佐の意志は、途中で公家たちに修正され、または公家の意向にすり替えられてしまいます。「玉を握ったつもり」が、全くそうなっていませんでしたね。

維新後十年、国内の武装勢力は一掃され軍事的緊張はなくなった。しかし、国民のすべてが明治新政府を信頼していたわけではない。むしろその逆で、圧政に次ぐ圧政に不満分子は増加する傾向にあった。その不満の受け皿になったのが民権運動である。
彼らは、この国に憲法のないことを政府批判の口実にした節がある。

明治政府には「国家の大本」として設定した五か条の御誓文があります。

維新物語ではとりわけ有名な坂本龍馬の「船中八策」を素案として、三岡八郎、福岡孝悌などが起草して出来上がった<基本方針>ですが、「これでは憲法と言えない」と不満分子たちは批判します。民権運動の中心になった者たちには幕府時代に諸外国に遊学した者たちが多くいます。勝海舟などとアメリカに渡った者たち、幕府が派遣した第一次遣欧使節団として英国のロンドン万博を見てきた者たち、さらに徳川慶喜の実弟・徳川昭武に随行してパリ万博を見てきた者たち、・・・彼らはヨーロッパの言う「国家」の姿を経験してきています。

「憲法を制定すべし」

明治7年ごろから、この声が全国に広がっていきます。勝ち組でありながら政権から締め出された土佐、肥前は勿論、賊軍のレッテルを張られた諸藩を中心に声が高まっていきました。彼らは「私擬憲法」と呼ばれる憲法草案を提案します。組織的まとまりはありませんから、その内容は地方ごとにバラバラで、ドイツ憲法を単純に翻訳した物真似だけしたものから、聖徳太子の十七条の憲法を明治風に書き直した物まで種々雑多です。

ただ、共通点が一つだけあります。いずれも天皇制を第一に掲げます。それだけ・・・天皇の叡断に対する期待が大きかったのでしょう。天皇への信仰といっても良いかもしれません。

明治に設定された大日本帝国憲法は「不磨の大典」とも呼ばれます。

天皇が天皇大権と呼ばれる広範な権限を有したこと。特に、独立命令による法規の制定(9条)、条約の締結(13条)の権限を議会の制約を受けずに行使できるのは他の立憲君主国に類例がなかった。

統帥権は慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部・海軍軍令部)の専権とされ、シビリアンコントロールの概念に欠けていた。後に、昭和に入ってから軍部が大きくこれを利用し、陸海軍は天皇から直接統帥を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとして、満州事変などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示した。

これはWikipediaからの引用です。

最も特徴的なものを二つだけ引用しましたが、「天皇大権」と言われる部分は、これを利用する勢力には魅力的です。

民意を味方に付けるには多大な苦労が要りますし、それを長期的に維持することは不可能ですが、天皇さえ、一人の人間だけを制御してしまえば何でもできるわけですから鬼に金棒というか、自分が王様になれます。征韓論で揉めた時、岩倉具視が使ったのが「これ」です。 

<憲法発布の図>              「帝がワシに決定を依頼された」・・・この一言で論争は終わりました。要するに、岩倉の意見通りになったということです。

だから桐野(人斬り半次郎)らが反発し、西郷さんが黙認して西南戦争になりました。

もう一つの統率権・・・これが日本国二千年の伝統に泥を塗ってしまいました。

これを、強引に憲法に盛り込んだのが山県有朋です。軍を掌握し、誰からも指図されることなく独立した勢力として保持するために、山県は軍の参謀本部を天皇直属にしてしまいました。

どういうことかと言えば・・・、政府が「戦争はするな」といっても、参謀本部が「戦争する」と決めれば戦争ができるということです。

政府が軍隊に「やめろ」といっても、無視できるということです。

勿論、最終決定は天皇ですが、軍部が勝手に始めてしまったら後に引けなくなります。

かくして始まったのが満州事変で、陸軍の一部である満州方面軍が始めた戦争に、全国民が引きずり込まれて、塗炭の苦しみを味わうことになりました。この当時は政府も陸軍大将ですから誰もブレーキをかけません。かけられません。

ミャンマーでは、アウンサン・スー・チーさん率いる革新政党が政権を奪取したようです。

マスコミはこぞってミャンマーの民主化が実現したように喜んでいますが、ミャンマーの軍部は統率権に似た権限を持ったままです。面従腹背・・・いくらでもできます。政権の座は渡しても、軍の権限は憲法で守ってあります。そしてその憲法も、軍の同意がなければ変えられない仕掛けを仕組んであります。

スーチーさんにとってはこれからが試練でしょうね。政権は執っても憲法には手が付けられません。しかし、憲法に手が付けられない…という環境は日本の安倍さんも同じです。「憲法」と発言したとたんに、蜂の巣をつついたような大騒ぎになり、「憲法改正=戦争=徴兵」と騒ぎ立てる野党にマスコミが便乗します。そしてその煽動に乗る、平均的日本人・・・いい人…がいます。

阿部さんや、橋下君、慎太郎親父がどれだけ頑張っても、「憲法改正」と正攻法で攻めたら扉は開かないでしょうね。戦争アレルギーは日本人の体質になってしまいました。

まずは、9条は棚に上げて「戦争と無関係な条文」の改正から進めたらいかがでしょうか。

現代の情勢に合わないことが多々ありますよねぇ。

そうやって・・・国民の常識と憲法を近づけていかなくては百年たっても変わらないと思いますよ。気の長い話ですが。座して死を待つよりはマシでしょう。

今週はドラマと関係のない話に終始しました。

文聞亭は目下、来年の「真田丸」の情報収集に注力しております。