どうなる家康 第39回 日吉丸物語

作 文聞亭笑一

日中韓の誰にとっても、何の益もない戦争が延々と続きます。ウクライナでも、そしてまた・・・イスラエルでも、国家権力による殺し合いが、後を絶ちません。人間って馬鹿ですね。

知に働けば角が立ち、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、所詮この世は住みにくい。

「知」とか「情」とかはまだまだ制御可能ですが、「意地」という奴は・・・思い込んだら命がけ。

「知」と「情」で説得しても・・・本人の目が覚めるまではなんとも手の下しようがありません。

信長、秀吉、家康の政治姿勢を詠った川柳に

鳴かぬなら 殺してしまえ 時鳥

鳴かぬなら 鳴かせてみせよう 時鳥

鳴かぬなら 鳴くまで待とう 時鳥

・・・がありますが、意地に凝り固まった長老は「鳴かぬなら 死ぬまで待とう 時鳥」でしょう。

秀吉の晩年・・・家康はじめ、廻りの者たちは「死ぬまで待とう」という心境だったと思います。

後継者

晩年の秀吉はボケていた・・・と推測する作家が多いのですが、認知症、アルツハイマーとは無縁だったと思います。

むしろ精神疾患・・・躁鬱病の傾向が出ていたように思います。

勿論、老化現象による忍耐力の衰えから失言や、ミスジャッジもあります。

頂上呆け・・・といわれる思い上がり、「天上天下唯我独尊」の高揚した気分もあったでしょう。

それよりも・・・秀吉の心を支配していたのは後継者問題、豊臣家の行く末だったと思います。

華やかで、艶やかな聚楽第を中心とする桃山文化・・・この国が始まって以来の、最高の栄華ではなかったでしょうか。

たまたま戦国期は地球の温暖化の時期でもありました。

物なりは良く、人口は増え、海外貿易が拡大して経済はバブル的大発展をしています。

Japan as No1などと思い上がっていた昭和末期のバブル期と重なってきます。

何の問題も無い、飛ぶ鳥落とす勢いの豊臣政権に・・・最大の問題、後継者問題があります。

秀吉には子供がいません。

正妻の寧々さんは勿論、子作りのために集めた側室達の誰もが妊娠してくれませんでした。

相手が大勢いても、誰も受精しないと言うことは・・・不妊の原因は秀吉でしょうね。

秀吉自身もその事は自覚していたと思います。

ところが、茶々が鶴松を生みます。

ここから秀吉の迷いが始まります。

「俺の子ではない、が、俺の子にして後を継がせる」という路線と、姉の子「秀次を後継者にする」路線と、天秤にかけてみます。

誰の子か?は母親だけが知っています。

知っているのは茶々だけです。

俺の子だ・・・と言い張って政権を茶々に託す・・・という路線。

俺の子ではない・・・ならば、吾が血統を残すには姉の子・秀次か秀保しかないという路線

鶴松が死んで・・・「これしかない」秀次に関白職を譲りますが、秀次の最大の欠点は小牧長久手の戦いで家康に負けた、それも惨敗したという汚点です。

これをどう濯ぐか・・・秀吉が悩みます。

秀吉なら家康を抑えられますが、秀次には無理です。

そして、その秀次の為には参謀、後見役を育ててきませんでした。

自分の後は弟の小一郎・秀長と決めていたからです。

躁鬱病かどうかはわかりませんが、茶々との閨房ではイケイケ ドンドン・・・躁状態で過ごします。

寧々との茶飲み話はグズグズ ウジウジ・・・鬱ですね。

そして・・・本音をさらけ出して自分に帰れる場所は母親の元でした。

その母親が亡くなって・・・自分の落ち着く場所がなくなり、躁と鬱だけが残りました。

政治の世界、人間関係は境目が見にくいアナログ世界が多いのですが、躁鬱になった秀吉の判断はディジタルになっていきます。

残虐になります。

秀頼誕生

子の父親は生母にしかわからぬ・・・という盲点を突いた茶々・淀君は凄い政治家ですね。

茶々が令和の世に生まれていたなら・・・色キチガイのジャニー喜多川を籠絡して芸能界を支配してしまうくらいはお手の物でしょう。(笑)

茶々が殿下の御子・秀頼を産みます。

このニュースを、秀吉はどう受け取ったでしょうか。

「茶々め、浮気をしおって・・・」という嫉妬の感情と、「秀次では危ない」という政権維持の理性と・・・天秤にかけました。

幼子を頂点にした集団政権構想は如何にと・・・悩みます。

五大老、五奉行というのは・・・そんな悩みの中から出てきたアイディアではないでしょうか。

五大老という軍事師団を組織化します。

関東方面軍・・・徳川家康

東北方面軍・・・上杉景勝

北陸方面軍・・・前田利家

中四国方面軍・・・宇喜多秀家

九州方面軍・・・毛利輝元

瀬戸内海軍・・・小早川隆景

これだと6人になってしまいますが、宇喜多は小早川の後任です。

五奉行というのが秀吉政権の行政府です。

刀狩り、太閤検地などの大改革をやってのけたのは奉行達の手柄です。

関ヶ原で負けたからといって石田三成や増田長盛の功績を消してはいけません。

刀狩り・・・があったればこそ、現代日本の保安・銃刀法規制が当たり前として受け入れられていて、銃を持つのが当たり前の野蛮国・USAとは違うのです。

茶々の子か、それとも秀次か・・・

秀吉は前者を選びます。

ここからは聚楽第の惨劇・・・人のやることではありません。

秀吉をそこまで追い込んでしまったのは「不安」でしょうね。

信頼できる者がいなかったという組織力のなさと、せっかく取り込んだ養子達を育てきれなかったことが「秀頼を頼む、頼む」の老残になってしまいました。

信長から養子にもらった秀勝・・・朝鮮で死なせてしまいました。

家康から養子にもらった秀康・・・豊臣政権に参画させていません。

弟・秀長の養子にした秀保・・・兄・秀次との関係を疑い、暗殺してしまいます。

秀吉の判断の通り、秀次では後継できなかったでしょうが、幼君・秀頼を兄たち3人(秀勝、秀康、秀保)が支えるという次世代構想ができていたら・・・豊臣が生き残ったかも知れません。

立身出世の日吉丸物語も・・・最後が哀れです。

徳川から出奔した石川数正・・・名護屋の陣中で、フグの毒で死んでいます。暗殺かも??