乱に咲く花 48 群馬県と学校令

文聞亭笑一

お話も終盤に差し掛かってきました。どういう終わり方をするのか見当もつきませんが、しばらくは群馬県令としての楫取素彦とそれを支える美和さんの「志・・・教育」であろうと思います。それもあって、今回は群馬県と、明治5年に発布された教育令について調べてみました。

群馬県という名称は、明治維新の際に官軍に対する賊軍ということもあって、高崎、前橋などという名称は使われませんでした。

徳川幕府にとって、この地は守りの要であり、譜代の中でも最強で、最も信頼できる徳川四天王の内の二つ、本多、榊原を配し、更に交代旗本の陣屋なども置いていました。

西から来る敵が彦根の井伊を倒し、中仙道を関東に駆け上るのを阻止する軍事拠点です。

北陸道の前田も信用できません。江戸に攻めかかるには信濃から碓氷峠を越えてくる道筋です。会津の上杉も信用できません。これは旧領の越後の兵を巻き込んで三国峠を越えてくる道筋です。ここを突破されると、あとは広大な関東平野ですから手が付けられなくなります。そういう背景があって、明治政府も細心の注意を払いました。長州でも屈指の人材である楫取を送り込んだのはそういう背景です。

県名になった群馬はこの地方の郡の一つ、群馬郡から取りました。群馬、読んで字の如く古代から軍馬の供給地として知られていました。隣の長野県の信濃十六牧と並び、山沿い地方を中心に上州九牧として知られています。

群馬は「馬が群れる」という意味であり、貴重な馬が群れている豊かな土地であった。この地方が古くから馬に関係あったことはよく知られている。   (Wikipedia)

上州と呼ばれるのは、この地方(群馬県、栃木県)の旧名が毛野国であったことからです。

古くは群馬県側が上毛(かみつけ)、栃木県側が下毛(しもつけ)でしたが「毛」というのが嫌われて、上野(こうずけ)下野(しもつけ)と毛野国の「野」の方が使われています。これをさらに短縮して上州という呼び名が一般化しました。

「からっ風」「雷」「かかあ天下」が名物。海洋国家である日本において、内陸部に位置する数少ない県である。かかあ天下の由来としては、世界遺産に登録された富岡製糸場と、絹産業遺産群での「おかいこさん」との愛称で親しまれた御婦人方の稼ぎがあったことが考えられる。また、群馬県は一世帯当たりの自動車保有台数、女性の運転免許保有数が日本一多い。

上信国境には妙義山、浅間山などの高山が立ちあがっています。上越国境には谷川岳、赤城、榛名などの高山が立ち並びます。これは風に対する壁ですね。この壁が空っ風と雷を生みます。冬の季節風は上越の山並みで雪を落とし、山を越えて関東平野に流れ込みます。これが「空っ風」ですね。冷たい寒風です。これとは逆に夏の季節風は関東平野で急速に熱せられ、山に当たって積乱雲を発生させます。入道雲が見る見るうちに沸き立ち風神、雷神の襲来です。上州に限らず山間の土地では夏の風物詩で、どこの地方にも起きる現象ですが、関東平野が広い分だけ上州の雷雲の発達は大きくなります。

上州の雷と言えば、かつて情報システムを導入しようとしたときに苦労した思い出があります。高崎の営業所長が「ここは雷が多いから情報端末は使えない」と頑強にシステム導入に反対しました。どんなにデータを示して説得しても応じません。仕方がないので技術者を二週間貼りつけて、導入予定の機器を設置して、雷によるノイズとシステムへの影響を実験させました。たまたまその年だけだったかもしれませんが、雷の発生回数は京都並でした。信号線が拾うノイズも、大したことはありませんでした。「雷が落ちるとテレビが燃える」に近い誤解です。

出張した技術者と営業所長は二週間、毎晩酒を酌み交わし、意気投合してシステム推進派に早変わり、無駄のようで有益な経費の浪費でした。システムが嫌い・・・と云う感情が、群馬の雷という理屈をつけて抵抗していたのが実態でしたが・・・沖縄の埋め立て反対がそうでないことを祈ります。「辺野古を作れば戦争になる」…南沙諸島の中国とは違うと思いますよ。

かかあ天下・・・Wikipediaの解説に「尤もだ」と頷きます。男が農作業で稼ぐ所得よりも女衆が「お蚕様」で稼ぐ所得の方が大きい…というのは戦後でもそうでした。養蚕は女の仕事でした。以前にも書きましたが、私は養蚕のお陰で大学に行けた一人です。養蚕で男が活躍する場面は、蚕が成長し猛烈に葉を食い始めてからの一週間です。その前の幼虫育て、繭作りを始めてからは男の出る幕はありません。養蚕は力ではありません。繊細な観察力と忍耐力です。

男女同権、女性の社会進出・・・大いに結構です。が、科学的に、生理学的に男と女は違います。それを無視した「同権」主張には賛成しませんね。それぞれが異なった分野で主導権を握るほうが社会は巧く回ると思います。女性初の戦闘機パイロット誕生のニュースとか、イクメン主夫の話とか…なんとなく自然の摂理に逆らっているように思えます。それこそイスラム原理主義者の主張に火に油を注ぎそうで「???」です。

保育、教育、介護・・・こういう分野こそ女性の社会進出が求められます。厚生労働省の役人は、女性が七割以上であるべきだと思いますね。大臣だって女性がやるべきだと思いますよ。

それに労働組合、この名簿上位に女性の名前が見当たりませんね。なぜでしょうか? 

その労働組合の支援を受けた自称革新政党がその問題を指摘せず女性の社会進出を叫びます。

かかあ天下・・・語源は「うちのかかあは天下一」です。上州の男たちは妻の働きに感謝し、役割分担をしっかりと自覚していたと思います。

美和さんは学校開設に兄・松陰の志を受け継ぎます。母親学級、小学校など私塾的に、寺子屋的に始めますが、明治政府は明治五年に学制令を出しました。

Wikipediaからその骨子を抜粋してみます。

①小学校を尋常小学校(修業年限4ヶ年)と高等小学校(修業年限4ヶ年)の2段階とする。
②就学義務の学齢は6歳(尋常小学校入学時点)から14歳(高等小学校卒業時点)に至る8年。
③尋常小学校修了までの4年間を義務教育期間とする
④1学級あたりの生徒数を、尋常小学校は80名以下、高等小学校は60名以下と規定。
⑤経費は主に生徒の授業料と寄付金から捻出し、もし不足の場合は区町村会の議決によって、区町村費から補足することができる。
⑥地方財政の窮乏を考慮し、簡易な初等教育を施す制度として、小学簡易科の設置を認め、尋常小学校に代用できることとする。
⑦小学簡易科の経費は区町村費から捻出し、授業料を徴収しないこととする

これは、明治初年にたびたび改定された教育令の引用ですが、「先立つものがなかった」政府の苦悩がまざまざと読み取れます。教育・・・に執着していたのは薩長土肥の中でも、とりわけ長州出身者でした。吉田松陰の松下村塾、さらには高杉晋作の奇兵隊の影響が読み取れます。

①~④までは「学校」の骨組みですが⑤~⑦は金の心配です。政府が金を出すとは一言も言っていません。国庫は戊辰戦争ですっからかん、西南戦争で借金の山です。「ない袖は振れぬが、皆々頑張れ」という内容ですね。

これが通用したのは社会の雰囲気、ムードでした。四民平等とは言っても、字が読めぬ、書けぬのが国民の七割以上で、社会進出しようにも手かせ、足かせになります。

ペリーやオールコック、アーネスト・サトーなど幕末に日本に来た外国人が日本見聞記の中で教育水準の高さを褒め千切っていますが、それは彼らが付き合った武士階級や商人たちのことで、庶民の教育レベルはそれほどでもありませんでした。ただ、耳学問という範疇ではかなりの知的レベルにあったことは確かだと思います。

群馬県で楫取や美和が設置した小学校の多くは⑥⑦の小学簡易科であったと思います。

地方財政の窮乏を考慮し・・・区町村費から捻出し、授業料を徴収しない

ということで、県内に学校を開設していったものと思われます。財政が窮乏していることを認めつつ、区町村費で賄えとは・・・随分と無茶な話です。が、それでも学校ができていったとは・・・明治の人たちの向学心「学びたい」「学ばせたい」という意欲には頭が下がります。

全国を8の大学区に分け、8大学校の、1大学区を32中学区にわけ、256中学校の、1中学区を210小学区にわけ、53760小学校を置くことを定めた。

翌年に改正され、大学区は7大学区に改められて実施された。

この時の区分けを見ると、机上の空論というか、実態を見ていなかった政府の姿勢が見て取れます。紙面が残り少ないので一覧表は転記できませんが、無茶苦茶な区割りをやっていますね。一例ですが、後に教育県と言われた信州では松本・諏訪・飯田などと言う筑摩県が金沢大学区、長野・上田・佐久などの長野県は新潟大学区です。

まぁ、教育令は毎年のように改定されていますから、試行錯誤であったことがよく分かります。それというのも江戸期の複雑な支配組織の影響だと思います。私の住むあたりでは、江戸期には百軒ほどの村ごとに支配者が違っていました。鹿島神宮領、増上寺領、高級旗本領…

そこにできた小学校が三つ、時代とともに統合され一つの小学校になっていきました。

孫たちは、明治五年創設の由緒ある小学校を卒業させていただきました(笑)