どうなる家康 第41回 関ヶ原前夜

作 文聞亭笑一

いやはや・・・秀吉の臨終の床で、茶々が「秀頼はあなたの子とお思いか」と・・・、ではないことを暴露してしまいました。

臨終の床に秀吉と茶々が二人だけ・・・という状況設定は「アリエヘーン!」事ですが「絶対なかった場面である」ということを反証しない限り、映倫カットはできないようですね。

そうなると・・・時代考証などという役割は有って無きに等しく、単なる権威付けに過ぎません。

時代考証の小和田教授も・・・信用と評判を落とすだけになりましたね。

秀吉の死因

一般に言われているのは・・・女性との性交のやり過ぎによる「腎虚」ですが・・・若いときは別として晩年の秀吉は茶々以外とは、それほどではなかったようです。

家康も晩年まで側室と同衾していますが、言ってみれば「湯たんぽ代わり」「緊急時の安全センサ」であって、性欲の発揮とは質が違います。

秀吉が腎虚になるほど頑張らなければならなかった不安や焦燥などありません。

1,腎虚説は・・・秀吉の色キチガイを演出するために江戸期に作られた戯作でしょう

どうしようもない「スケベ爺」と秀吉をこき下ろします。

側室を15人も抱えた家康は・・・神君だとか・・・世論工作ですね。どっちもスケベ

2,胃癌、大腸癌など・・・現代人の死因と重ねて、創作しています。

昭和になって、癌予防・・・を意識する医学者達が提唱している死因説です。

3,赤痢説・・・症状が似ていますが、ならば大阪城、名護屋城で流行ったはずですがね~

4,尿毒症説・・・これだとボケてしまうのですが、秀吉には最後まで呆け症状はありません

5,脚気説・・・大阪城、聚楽第と贅沢三昧・・・ビタミン不足 後の徳川将軍達と重ねます

6,感冒、肺炎、結核説・・・今回はこれを取りましたかね? テレビでは喀血しています

7,毒殺・・・小西行長、宗義智による朝鮮人参・強精剤と称した遅効性毒薬

8,梅毒説・・・当時の戦国武将が多く罹っていますが、茶々や側室には移っていません

皆さんはどれだと思いますか?

可能性が最も高いのは5の「脚気」ではないでしょうか。症状の殆どが当てはまります。

当時脚気の専門医は曲直瀬玄朔でしたが、秀次事件に連座して常陸に流されています。

専門医、主治医とすべき者を遠ざけてしまいました。

それと7の毒殺が外せません。

朝鮮の役で加藤清正以下の将兵は「太閤殿下に精がつくように・・・」と虎退治を行い、虎の生肉や胆などを「強精剤」として秀吉に献上しています。

清正の虎退治伝説です。

秀吉もそれを喜んだとか・・・、そのおかげで秀頼が誕生したのだとか・・・

ならば朝鮮人参をはじめ、精力剤を商いにしている元・薬屋の小西行長や、朝鮮貿易で生きている対馬の宗義智が「強精剤」と称して毒薬を献上しなかったとは・・・考えられません。

この二人は偽・講和条約の締結や、そもそもの朝鮮出兵を仕掛けた戦犯、戦争犯罪者なのです。

自分たちの失敗を糊塗するために、早期に戦争を終らせる必要がありました。

「戦争を終らせるには太閤に死んでもらうしかない」と、三成と共謀したことも考えられます。

五大老・五奉行

三成が発案し、秀吉も、家康も利家も賛同したという合議制・・・そんな物が機能すると思っていた政治家(戦国武将)は・・・皆無だったでしょう。

会議、合議が当たり前の現代人が考える夢幻です。

信長がキリシタンから導入した・・・などと夢想する歴史家もいますが、当時のヨーロッパでも合議制などは行われていません。

殆どの国は王政・・・王様による専制です。

五大老、五奉行・・・なんとなく平成の経営改革を経験してきた我々世代は、現代企業の経営構造である「取締役」と「執行役員」を五大老・五奉行に重ねて考えてしまいますが、まるで違いますね。

大阪城には両者を繋ぐ兼務の代表取締役社長がいません。

三成はそれを敢えて「代表取締役社長は豊臣秀頼である」と強弁するでしょうが、秀頼は神棚に祀った傀儡、名目に過ぎないことは地方の百姓にでもわかることです。秀頼は3才の幼児でした。

その意味で、秀吉は最後の最後まで「秀頼は我が子」と言い通しました。

この一線が崩れたら豊臣家、政権は崩壊してしまいます。

それは茶々にとっても同じ事で「秀頼は秀吉の胤」と言い通すことが自分と秀頼の存在価値でもあるのです。

口が裂けても「密通の子」などは言えません。

だから・・・先週の終わりの場面は嘘八百、壁に耳あり障子に目あり、忍者暗躍の時代ですよ。

為政者の秀吉と三成が構想した五大老、五奉行とは政権を運営するのは奉行である。

太閤代理(社長)の石田三成が政権のトップである。

大老とは・・・相談役である。

奉行が政権運用で悩んだら相談するが、相談がなければ閑職

三成のこの構想は悪くありません。

五大老の内、上杉は直江兼継とも昵懇の間柄ですし、宇喜多秀家は子分です。

毛利、小早川も自家薬籠中です。

警戒すべきは家康一人、圧倒的多数派です。

家康を除く五大老のすべては三成派なのです。

そして浅野長政を除く奉行達の3人も三成派・・・多数派工作も完璧でした。

会社で言えば・・・取締役会、執行役員会で三成派は圧倒的多数でした。

が、三成の思惑通りに事は運びません。

労働組合というのか、朝鮮の過酷な戦場で支援もなく戦っている現場部隊からの反発は強烈でした。

事業部長、部長クラスが揃ってアンチ三成、アンチ奉行になっていきます。

後に7将などと言われる加藤清正、福島正則、浅野長政、黒田長政などが三成政権を否定する野党に回ります。

それはそうでしょう。

朝鮮の役という無益な戦争をした責任追及がなされていないのです。

朝鮮の役は秀吉の決済で実行されましたから、最終責任は秀吉ですが秀吉にこの計画を焚きつけたのは誰か?

 博多商人たちが疑われます。

そして実行計画を作ったのは小西行長と宗義智です。

二人には朝鮮貿易の利権があります。

この三者にとって、ちまちまとした朝鮮貿易を大明国との大商いとして発展させるのが狙いでした。

秀吉の言う「明国を征服し・・・」などと言うのは、どうでも良いのです。

勘合貿易・・・明が規制している貿易の制約を取り払い、自由貿易が達成できれば良いのです。

貿易自由化・・・それだけの目的が、秀吉の誇大妄想的征服意欲を刺激し、秀吉の無知による夢想を煽ってしまます。

やらなくてもいい戦争へと発展させてしまいました。

彼ら戦犯、犯罪者を身内として大事にしたことが三成=豊臣家の不人気に繋がっていきます。

日本全国の兵士達が朝鮮の寒さで感冒→肺炎になり病死しています。

朝鮮役での死者は戦死者が僅か、殆どが病死でした。

ケジメなく、権威に頼った三成の大失敗でした。