乱に咲く花 49 鹿鳴館

文聞亭笑一

今年の大河ドラマも残りわずかになってきました。

維新物といえばだいたいが西南戦争までで、それ以降を題材にした物語・小説というのはあまり見当たりません。そして、日清・日露の戦争が発生する頃からまた増えていきます。

今週は楫取素彦と美和さんが互いに再婚する場面のようですが、明治16年(1883)という年は、鹿鳴館時代と言われる幕開けの時にも当たります。美和さんの私生活はテレビに任せ、私にとっては空白の鹿鳴館時代を勉強しつつ、辿ってみたいと思います。

日本を取り巻く環境を見ると、世界恐慌の真っただ中にあります。これは後にもっと大規模な世界恐慌(1930~)が発生したため、歴史教科書では「大不況」という名に替えられましたが「恐慌」であることに変りはありません。

事の起こりは普仏戦争で、戦争に敗けたフランスが賠償金支払いのために財政破たんしたのが引き金で、世界中に広がりました。猛烈なデフレの波です。テレビの中でも「恐慌」「相場下落」と言う言葉が飛び交いましたが、まさにそのことです。各国とも保護政策、緊縮政策を取りますから、生糸・絹製品のような贅沢品は売れません。物余りですね。

輸出品に大打撃があった一方、この影響は国内景気にはあまり大きな影響はありませんでした。

西南戦争での大出費の為、財務大臣の大隈重信が取った金融緩和、つまり太政官札の大量発行で、むしろインフレ傾向にあったのです。この恩恵に浴したのは商業者と富農で、国民の一部に富が集積していきます。貧富の差が拡大します。

先ずは儲かった方を見ていきましょう。政商と呼ばれた人たちがいます。三井高利(三井)、 岩崎弥太郎(三菱)を筆頭に住友、鴻池などの商人たちがいます。さらに渋沢栄一や五代才助など武士からの転向組もいます。五代才助は朝ドラ「朝が来た」でも脇役として登場していますね。彼らは財政危機で困った政府の官営工場の払い下げなどで、巨大な資本を蓄えていきます。

このインフレ政策を推し進めたのが財務卿の大隈重信(肥前)でした。大隈はこの金融緩和の資金源を外国債の発行に求めようとしましたが、それに反対したのが松方正義(薩摩)でした。

明治14年の政変と言うものが起きます。原因は憲法制定に関してプロシャ型を取ろうとする伊藤博文などの主流派に対し、大隈はイギリス型を主張します。これに岩倉具視や三条実美などが絡んで政府を真っ二つに割るような論争になります。大隈は奥の手として「天皇の密勅」で事を決着しようと画策しましたが、それが露見して政府を追われます。大隈派に属していた福沢諭吉の慶応義塾組も全員追い出されます。

松方は不換紙幣を回収・焼却処分にし、1882年に日本銀行条例を公布して日本銀行を設立する。国内的に余裕があった銀貨に基づいた銀本位制の導入をめざして、「緊縮財政」を実施した。また、これに要する政府資金調達のために、政商への官営模範工場の払い下げ、煙草税や酒造税などの増徴による歳入増加策、軍事費を除く政府予算の縮小等により紙幣発行量を縮小していった。   (Wikipediaより引用)

富岡製糸場の払い下げ問題というのは、この松方改革の一環です。陳情が通ったというのか、欧米の不況の影響で入札に応じる企業がなかったのが払い下げ中止の理由でしょう。後に三井が払い下げを受け、そして片倉工業が買収するという展開になりますが、それは世界大不況が終わって世界経済が活性化した後の話です。

松方のデフレ政策というか、円の信用を上げる財政はそれなりに効果を発揮しますが、しわ寄せは一次産品の価格下落で、農漁民、地方の零細加工業者を直撃します。物の値が半分近くなるほどの急激なデフレですから堪ったものではありません。我々が最近経験したリーマンショック後のデフレなどと云う半端なものではありません。「半値八掛け二割引」などという言葉はこの当時に流行った言葉の一つでしょう。寅さんの言葉を借りれば

「こないだまで100円で売ってた上等な品物だよ、お兄さん。今日は特別半値で50円だ、どうだい、お買い得だよ。なに、高い? なら8掛けで40円にしてやろうじゃねぇか。

なに、まだ買わねえか。ええい、二割引いて32円だ。持ってけ泥棒」

このデフレで最も困ったのは小規模農家と零細企業です。これに板垣退助の率いる自由民権運動家や、政府を追い出された大隈重信の改進党などが便乗し、反政府運動「自由民権運動」が活発になります。群馬事件、秩父事件といった農民による暴動が起きますが…それは次回の放送ぐらいになるのではないでしょうか。

楫取は長州閥に属しますし、伊藤、井上といった政府の要人と懇意ですから、政府と農民との間に立って苦労したでしょうね。

その井上馨(聞多)が始めたのが鹿鳴館です。

計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。当時の日本外交の課題は不平等条約改正交渉、特に外国人に対する治外法権の撤廃であったが、日本に住む外国人の多くは数年前まで行われていた磔刑や打ち首を実際に目撃しており、外国政府は自国民が前近代的で残酷な刑罰に処せられることを危惧して治外法権撤廃に強硬に反対していた。そのため井上は欧化政策を推進し、欧米風の社交施設を建設して外国使節を接待し、日本が文明国であることをひろく諸外国に示す必要があると考えた。

歴史学上でも、あまり評判が良くない鹿鳴館ですが、当時の外交を担当していた井上馨にしてみれば「これしかない」というほどの思い入れであったと思われます。語学教育は、旧幕府時代から盛んにおこなわれていましたが、「会話」というのではなく「語学」でした。従って、読み書きはできても話はできないというのが日本人の英語力です。我々の時代もその伝統を引き継ぎましたから英会話は苦手ですね。「英語は度胸だ!」とばかり、発言はできますがヒアリングが……からきしダメです。こちらの発言に相手が何と答えたか…それが聞き取れません。笑顔で、頷きながら反対意見を述べられても、<相手はこちらの意見を了承した>などと勘違いして、事件を引き起こします。現代でもそうなのですから、明治はもっと大変だったでしょうね。

鹿鳴館で何をしていたのか。 専らパーティーです。食事会です。 迎賓館ですからね。

ところが…参加する日本人は、井上や伊藤などのように海外滞在の経験者はいざ知らず、その奥方などは全く洋式の作法を知りません。出席する前に練習はするのですが、所詮は付け焼刃です。外国人が書き残したものを見たら散々な評価だったようです。猿真似、不作法などという記録が沢山書き残されています。日本人参加者は懸命に努力したのですが、文化の違いは一朝一夕に身につくものではありません。むしろ、勝海舟などの訪米団が日本式・サムライを貫いた時の方が、評価が高かったという、皮肉な結果になりました。

一方、欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていた。また当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でもその大部分は、西欧式舞踏会における マナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった[3]。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立った。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していた。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた 芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ[4]、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという[5]。

いやはや大変な努力でしたね。上流階級は上流なりに異文化の急速な浸透に翻弄されていました。楫取や美和さんもこの混乱の渦に巻き込まれていきます。

異文化に翻弄されて…というくだりは現代にも当てはまりそうです。現代、10代の若者たちのスマホ利用率は70%を越えているようですが、これが果たしてどう成熟していくのでしょうか。少なくとも今日只今は混乱の真っ最中にあり、「虐め」「学力低下」の大きな原因になっています。

ガラ系の私は使ったことがありませんが、ラインなるアプリで猛烈な量の情報が飛び交っているようです。高校生の孫などは片時も気が休まらないようで、しょっちゅう見ていないと「危なくてショウガネェ」などとぼやいています。反応が遅いとネグレクトされ、それが悪質になると虐めになるのだとか。

統計の採り方、モノサシの変更の影響もあると思いますが、実質的にも増えていると思われます。社会の影響が最も出やすいのが弱者で青少年に出ているのが現代ではないでしょうか。顕在化している者だけでもこれだけありますから、氷山の喩えでいけばこの10倍の潜在している者がありそうです。とりわけ小学生に多いのが気がかりです。「誰ちゃんが虐めた、エーン、エーン」という我々の頃とは質が違いそうです。

今週は、少々脱線が過ぎました。

クリックで拡大します。