どうなる家康 第42回 戦国の終焉

作 文聞亭笑一

受験勉強の一つに「歴史的事件の年号を覚える」という作業がありました。

鳴くよウグイス平安京(794年)

良い国作ろう鎌倉幕府(1192年)

と並んで、

最も覚えやすいのが

関ヶ原の合戦・1600年でした。

応仁の乱を出発点とする戦国の世が総決算、オシマイ・・・となったのが関ヶ原だと思います。

東軍(徳川) 対 西軍(石田)と物語には描かれますが、西軍の大将は毛利輝元で、石田、輝元など西軍に担がれていたのが幼少の豊臣秀頼でした。

歴史小説では、誰を主役にするかで関ヶ原の戦いの描かれ方が違ってきます。

英雄と悪役も入れ替わります。

ともかく、日本中の大名から武家、そして足軽までが「東西どちらが勝つ? 勝ち馬に乗る」と欲得に駆られて、決心を迫られる機会でした。

戦場に出ない者たちも「どちらに兵糧を提供するか」決心を迫られます。

上杉景勝の場合

関ヶ原の戦いの引き金、宣戦布告の直江状を書いたのは、会津若松に本拠を持つ上杉景勝と、その腹心の直江兼続です。

上杉が・・・何故に豊臣家を中心とする政権維持にこだわったのか?

これまでの歴史物語ではその輪郭がはっきりしません。

上杉家が、秀吉に特別な恩義を受けた?というほどのことはありません。

義の人・景勝・・・などと言われますが、豊臣政権に景勝が惚れ込むほどの「義」があるとは思えません。

豊臣政権、秀吉政治とは典型的金権政権でした。

だからこそ昭和の金権宰相である田中角栄は「今太閤」などと呼ばれたのです。

兼続と三成の友情・・・という説もあります。

が、そんな浮ついた青春物語で戦争はしません。

戦争の原因は常に経済問題で、儲かるか、儲からないかの欲得勘定です。

上杉にとって秀吉による会津移封は経済的大打撃です。

佐渡の金山を取り上げられ、直江津をはじめとする港町、日本海流通網から閉め出されてしまいました。

はっきり言って、上杉の会津移封は左遷です。

秀吉には恩義どころか恨みがあっても不思議ではありません。

ではなぜ?

戦国の混乱への回帰・・・豊臣体制のぶちこわし・・・ではなかったか?

佐竹義宣の場合

常陸の佐竹・・・物語に登場することは少ないのですが、戦国時代の関東の雄です。

常陸、現在の茨城県を根城にし、下野(栃木)や下総(千葉)にまで勢力を伸ばし、小田原の北条には最後まで屈しませんでした。

更に、時勢を読むのに優れいち早く秀吉に接近し、自分と敵対する小田原北条、陸奥の伊達を悪者に仕立て上げます。

豊臣政権下で53万石をもらい、五大老に次ぐ位置を確保していました。

上杉征伐・・・微妙な立場です。

・・・というより、中央政界に躍り出す絶好のチャンスです。

自分の目の前で、南から徳川が進軍してきます。

北から上杉が国境の配備に付きます。

白河の関を巡る戦闘・・・関ヶ原ではなく、こちらで決戦が起きるはずでした。

攻める徳川、守る上杉、戦闘は長期化するはずです。

機を見て・・・勝ちそうな方、利を多く与える方の味方について大暴れ、上杉が勝てば上総、下総を。

徳川が勝てば会津、磐城を・・・そうすれば百万石の太守です。

伊達政宗の場合

政宗にとって、秀吉は成長の芽を折ってしまった嫌な奴です。

その秀吉がいなくなり、あちこちで騒動が起きることは大歓迎です。

ましてや、近隣で上杉と徳川が決戦となれば、どちらが勝っても体力を消耗します。

勝った方に味方し、負けた方を徹底的に叩く・・・戦国乱世の基本に従うまででしょう。

そして戦勝の分け前をもらい、中央での地位も狙います。

家康からの「上杉を撃て」の命令には「はい、はい」と軍を進めますが、戦闘はしません。

政宗にとっては徳川が負ける方が面白くなります。

戦争が長期化し、徳川も上杉も消耗し、そのどちらかを伊達が叩いて・・・関東の雄として旗を立てる。

天下分け目の大一番・・・長期戦は当然・・・そう、常識です。

早すぎた三成の蜂起

情報網が口伝しかないのが当時です。

いや? 狼煙、半鐘という情報手段もありましたが関東と関西を繋ぐ情報網は口伝、人から人へとつなげるしかありません。

三成は徳川と上杉の戦闘が始まってから蜂起、旗揚げと考えていただろうと思いますが、なぜか、徳川vs上杉の戦闘開始以前に旗揚げし伏見城を攻めます。

家康にはあらゆる戦略的、戦術的な自由度・時間がある中でしたから拙速でしたね。

これが小山会議、反転攻勢へと家康を誘い込んでしまいました。早すぎたのです。

家康と上杉が戦闘を開始し、伊達と佐竹が複雑な動きをして長期化し、家康軍を関東に足止めしていたら・・・西軍にも勝ち目が出てきました。

毛利一族の場合

「中央政権に欲を出すな」というのが始祖・毛利元就の訓えで、中国8カ国の大領を抱えていたのが毛利家でした。

三本の矢(サンフレッチェ・・・イタリア語)の訓の通り、毛利本家、吉川、小早川の三家が一枚岩の結束で豊臣政権No1の実力を蓄えてきました。

五大老の内の毛利、小早川は・・・毛利です。

小早川隆景が亡くなり、大老は宇喜多秀家に代わりましたが、宇喜多も中国地方、毛利シンパでもありました。

石田三成の誘いで、西軍の総大将になってしまったのが毛利輝元です。

拙いことに、西軍の総大将を引き受けることを叔父の吉川元春や小早川家の了解を取り付けていません。

祖父・元就の訓に反する輝元の判断に、毛利軍団に結束が乱れていきます。

関ヶ原での毛利税の戦線離脱、小早川の裏切り・・・いずれも毛利勢内部での相談不足です。

黒田官兵衛の場合

東西決戦は長期戦になる、泥沼化するだろう・・・と読む人が多かったのですが、中でも黒田官兵衛は確信に近い形で長期戦を予測しました。

ならば・・・混乱に乗じて九州を席巻しようと行動を起こしたのが豊後中津の黒田官兵衛です。

秀吉の名参謀でしたが、あまりの優秀さに疑念を買い、九州に隠居していました。

チャンス到来と、九州の三成派を攻撃し、九州に一大王国を築く活動に入ります。

関ヶ原がたった1日で終り・・・官兵衛の天下取りの夢は潰えました。