どうなる家康 第43回 知らぬは三成ばかりなり
作 文聞亭笑一
今年の大河ドラマは面白くない・・・そのバロメータとしての視聴率が歴代のブービー賞だとかで一向に盛り上がってきません。
ちなみに過去最低は「オリンピック噺」だったようで、それに次ぐ低視聴率だそうです。
出演俳優も過去の低視聴率だったときの主役(平清盛、オリムピック)が二人揃って(松山ケンイチ、中村勘九郎)出演しています。
本多正信は・・・チャラチャラしていてはいけません。
陰謀家です。
ちょっと軽い。
茶屋四郎次郎は京都の商人ですよ。
勘九郎の演技は肩肘張りすぎ。
要するに・・・脚本も、演出も、配役、俳優も間違えましたね。
さて、先週は小山会議から東西両軍が陣立てしていく場面でしたが、エピソードを幾つも盛り込もうとするあまり、一つ一つの描き方が散漫になりました。
中途半端ですね。
それに、上杉征伐に向かったのに・・・上杉勢は蚊帳の外でした。
さて、関ヶ原本番にも幾つかのエピソードがありますが、ウソが多いようです。
どれもこれも・・・江戸時代の中盤に、ご先祖様の手柄話として書かれた小説のようです。
1,大垣にいた西軍本隊は、雨の夜間に関ヶ原に向かい陣を敷く なぜ?
2,霧で開戦が遅れた。督戦のため井伊直政と松平忠吉が抜け駆けし、宇喜多勢に突っ込んだ。
3,開戦後も中々参戦しない小早川勢に、「問い鉄砲」を放つ 小早川は驚き慌てて寝返った。
4,毛利勢が動かなかったのは・・・なぜ?
毛利勢の寝返り
毛利輝元は西軍の総大将です。が、なぜか関ヶ原に出陣していません。
大阪城西の丸で戦況を見守っていました。
輝元の行動に関しては幾つかの説があります。
1,輝元が毛利の参謀・安国寺恵瓊の動きに不安を覚えた・・・自分は騙されているではないか?
安国寺は自分に相談もせず、勝手に石田三成などと事を運んでいく。
本当に勝算はあるのか? ともかく「玉・・・秀頼・大阪城」は確保せねばならぬ。
2,前田が東軍に付くという情報がある。
更に、島津、長宗我部も怪しい・・・西軍の団結に不安。
3,吉川広家が・・・なにやら動いている。小早川も怪しい・・・毛利が割れてはいけない。
そこへ黒田長政を通じて、家康からの交渉が持ち込まれます。
戦後処理の相談です。
狸同士の化かし合いですが、家康からの提案は「毛利が戦闘に不参加なら本領安堵する」というものです。
中国8カ国が保持できるのなら・・・と祖父・毛利元就の遺言「毛利は中央に野心を持ってはならぬ」を思い出したのでしょうか。
この交渉に当たった仲介役は黒田長政、黒田官兵衛の息子です。
輝元⇔吉川広家⇔黒田長政⇔井伊直政⇔家康 誓詞が何通も行き来しています。
小早川も開戦以前に東軍に寝返っていました。
ですから「松尾山で、どちらに付くか迷った」というのは作文です。
小早川は開戦前から寝返っていましたが、霧による視界不良と、打ち合わせ不十分で進軍の時期がわからず、参戦が遅れました。
「進め!」合図に鉄砲を撃った・・・というだけのことだったようです。
井伊の抜け駆け
関ヶ原の戦闘は井伊直政と松平忠吉が抜け駆けをして宇喜多勢に突っ込み、それを見た福島正則が宇喜多隊に攻撃を仕掛けて始まった・・・ということになっています。
が、これは明らかに軍律違反です。
関ヶ原のような大戦では個別の軍団が勝手な行動をすると、それが元で敗戦になることが多く、固く禁じられています。
ましてや井伊直政は本多平八郎と並んで戦奉行です。
軍の司令長官が自ら軍律違反をするはずがありません。
これは、徳川家の事情でしたね。
関ヶ原に集まった兵士は東軍も、西軍も、いずれも豊臣の家臣同士です。
いわば豊臣家のお家騒動・・・なのですが、天下取り・・・となれば徳川と豊臣の戦にしなくてはなりません。
そのためには徳川家の後継者・秀忠が先頭に立って采配を振るわなくてはならないのですが、信州・上田で真田に翻弄されて間に合いません。
そうなれば代打・ピンチヒッターに起用するのは秀忠の弟・忠吉しかいません。
秀忠と同じくお愛の方の生んだ4男坊で、これが初陣でした。
そして忠吉の妻は井伊直政の娘です。
軍司令官の井伊直政が「家康の名代の忠吉」を連れて最前線に出る。
その事が大事なのです。
霧が晴れるのを待って逡巡する福島正則に、「われに続け!」と督戦のために駆けだしたのが、直政と忠吉、慌てて福島隊が突撃を開始し関ヶ原の戦闘が始まった・・・ということのようです。
抜け駆けだ・・・と手柄を横取りされたかのように騒いだのは福島正則でした。
島津の場合
島津は上杉征伐に参加するつもり、家康に協力するつもりで大阪にやってきました。
が、島津勢が大阪に上陸した頃は、すでに石田三成が蜂起し、毛利勢、宇喜多勢などが続々と集結している最中で、「俺は東軍だ」とは言える状況にありません。
「ま、いいか。どっちが勝っても俺は九州をもらう」これが島津の覚悟だったでしょう。
「やるからには・・・実力を見せてやる」
石田三成の指揮には従いません。
自分の実力を見せるチャンスをうかがいます。
が、それがないままに西軍が壊滅していきます。
最後の手段は「家康の首を取る」と敵中突破を狙います。
勝ち戦で、最も防御の弱いのが本陣、油断しています。
そこを衝くあたり、流石の・・・戦巧者でした。
論考行賞
関ヶ原の戦いを起こした犯人として、家康は石田三成を「豊臣家の代理」として厳しく罰します。
そして奉行派といわれた豊臣家の官僚達にも「取潰し」の厳罰で厳しく当たります。
あおりを食ったのが土佐の長宗我部、関ヶ原では傍観していただけなのに取潰されてしまいます。
この辺が島津と長宗我部の違いです。
長宗我部も上杉征伐のつもりで大阪に出かけたのです。
負けとわかっていながら家康の本陣を襲撃した島津は潔い・・・武士の鑑。
山の上から傍観し、さっさと逃げ帰った長宗我部は・・・卑怯者、ケシカラン武士の風上に置けぬ。
勝者の勝手な理屈ですね。
負け組 毛利8カ国→2カ国、宇喜多50万石→0,上杉100→30、佐竹50→20
長宗我部30→0,石田17→0 豊臣400→80
勝ち組 福島20→50、加藤清正15→50,黒田12→50,細川12→40