どうなる家康 第44回 暫定政権

作 文聞亭笑一

関ヶ原の合戦は、最近では「開戦前に勝負が決していた」とする説が主流になっています。

明治時代に日本陸軍を指導しに来たドイツ将校が、東西両軍の兵力と、地形と、布陣とを精査して、「西軍の完勝」を予想しましたが、西軍の仮面を被った東軍の存在は見抜けませんでした。

開戦までの間に、毛利と徳川の間で「和睦」が成立していました。

小早川と徳川の間でも「寝返り」の約束ができていました。

小早川=東軍、毛利=中立・傍観として布陣図の色をつけ直せば・・・圧倒的に東軍の優位になります。

戦争というのは根本に経済利権があり、それを巡っての政治があり、軍事行動は最後の手段です。

ウクライナに侵攻したプーチン・・・ロシアの経済の衰退、食料不安、国際的地位の低下を一気に回復すべく軍事行動を起こしました。

が、中々巧くいきません。

中国は中立を守ってくれますが味方にはなりません。

頼みの綱はイランなどのイスラム諸国。

彼らの敵・イスラエルで問題を起こし、アメリカを揺さぶります。

プーチンは世界大戦、関ヶ原を意識・・・いや、覚悟しているのかも知れません。

そうなるとヒトラー以来の狂人です。

それはともかく、「戦闘は長期化する」と読んだ西の黒田官兵衛、東の伊達政宗の読みは外れて一日で勝負が決してしまいました。

読みの外れた二人は、戦前に家康と交わした約束を反故にされてしまいます。

家康が負けた場合を想定した闇の打ち手が徳川にバレてしまいました。

伊達政宗は50万石加増の「百万石のお墨付き」がパーになり、+1万石でした。

黒田官兵衛は「切り取り自由」の約束を反故にされ、「息子に加増した」とあしらわれます。

どちらも・・・「混乱に乗じて自分が主役に・・・」という下心を読まれていました。

関ヶ原暫定政権

関ヶ原の戦いがあったのは1600年9月です。

ここで政権交代、豊臣から徳川へ・・・と思いがちですが、徳川幕府ができるのは1603年2月です。

2年半・・・これを、仮に「関ヶ原暫定政権」と名付けてみましょうか。

実力は徳川、名目は豊臣という中途半端な政権です。

そもそも、上杉征伐から始まった関ヶ原の戦いというのは、豊臣政権下の勢力争いでした。

家康と、それを頼る寧々夫人子飼いの武将達がいます。

淀君と秀頼を傀儡に、秀吉体制を保守しようとする大老、奉行がいます。

この勢力が喧嘩を始めたのがそもそもで、どちらも豊臣家の家臣です。お家騒動・・・です。

関ヶ原で勝った・・・といっても、お家騒動で相手方を倒したということだけで、豊臣政権が潰れたわけではありません。

政権は依然として「秀頼」の元にあります。

戦後処理として家康は論考行賞を行っていますが、いずれも「口頭」です。

辞令「領地宛行状」を出していません。

出さなかった・・・のではなく、出せなかったし、出すとしたら秀頼名義になります。

いずれ江戸で幕府を開く、その途上です。

大名達に秀頼名義の地方自治権を与える証拠書類は渡したくなかったのでしょう。

口頭辞令をもらった大名達は「家康から?」「秀頼から?」

わからなかったでしょうね。

わかっていたことは「名目は豊臣、実力は徳川。名目よりも実力に従う」という単純な理屈だったでしょう。

それにしても戦わずして大幅減封の毛利

売り家と 唐様で書く 三代目  ・・・でした。

輝元は毛利元就の孫・三代目です。

豊臣処分

豊臣家の代理として政権を担う・・・という建前にしては、豊臣家に厳しい処分をします。

220万石あった直轄の領地を摂津、河内、和泉の三国、65万石に減封します。

「政権運営は徳川が代行する。だから豊臣家はその費用を負担しなくて良い。

政権運用費として、残りの豊臣領155万石は徳川が預かる(もらう)」

こういう理屈でしょうね。

「貨幣発行も徳川が代行する。従って金山、銀山は徳川が管理させていただく」

佐渡金山、石見銀山、生野銀山、黒川(甲斐)金山・・・等々、すべて徳川領に組み入れます。

秀吉の黄金文化を支えた資金源、これを没収してしまうのが関ヶ原の一番の成果だったかも知れません。

その後、大久保長安がアマルガム精錬法を導入し金鉱石の大増産を始めます。

徳川幕府の資金量は大阪城の備蓄金を遥かに凌いでいきます。

関ヶ原の1600年9月から、1603年2月に家康が征夷大将軍を拝命し江戸に幕府を開設するまでの間に・・・じわじわと経済の中心を大阪から奪っていく。

こういうことを考えた経済官僚は誰でしたかね? 

歴史には名を残しませんが、こういう人たちが「狸・・・家康」を作り上げました。

大阪、船場辺りでは豊臣系豪商(淀屋)などが倒産し、徳川家御用達の店が勢いを増してきます。

民間企業とっても、生き残りをかけたサバイバル戦争であったのが、暫定政権の二年半ではなかったかと思います。

秀頼と千姫

秀頼の画像としてよく使われる絵ですが、なんとも頼りない・・・ボンボンに描かれています。

江戸期に、徳川をヨイショするために、敢えて秀頼を軟弱な公家風といった印象で描かれたものでしょう。

写真

秀頼の出生とか、体格とか、色々言われていますが有名人の割に資料が少ないのが秀頼です。

秀頼のもの・・・とされる具足からの推測では、6尺を越える大男と推測されます。

が、実は秀吉の具足も同様なものがあります。

実際に着用し、使用された具足と、飾り物として展示されていた具足など色々なものがありますから具足からの体格測定はあくまでも参考値ですね。

秀頼と千姫との婚約は秀吉の生存中に決められていました。

1603年 家康が征夷大将軍を拝命し、江戸幕府を開くのと同時期に二人の結婚が執り行われました。

秀頼11才、千姫7才・・・小学生のママゴトです。

互いの母親は茶々と江の浅井姉妹ですから従兄妹同士の結婚と言うことになります。

なんとなく・・・交換条件といった臭いもします。

政権を取り上げる代わりに千姫を人質として渡す・・・そういう政治駆け引きだったと思います。

そうして、そうなることを、秀吉夫人の寧々が承知していますから、加藤清正も、福島正則も、浅野長政も文句はつけられません。

また、この時の官位が家康・従一位、秀頼・正二位と徳川が上位に立っています。

朝廷が徳川政権を認めた証でもあります。

これが正式な政権の移行でした。