どうなる家康 第45回 方広寺の鐘銘

作 文聞亭笑一

物語が一気にスピードアップしました。

関ヶ原(1600)が終ったら、江戸幕府の創設(1603)、そして豊臣家への圧力を加えつつ鐘銘事件,大坂の陣(1614)へと一気に突っ走るようです。

今回で終わりなのか、それとも・・・もう一回か、子兎・家康物語が終わりに近づきました。

今回の物語、作者・脚本家・演出家は何を意図したのかわかりませんが、徳川家康という男が戦国の世に終止符を打ち、太平の世、戦のない260年を創出したという事実をどう評価しているのでしょうか。

「神の君」などと茶化していますから・・・評価は低そうです。

家康の目で今の世界情勢を俯瞰してみます。

プーチンがロシア勢力拡大を企図した短期決戦の戦術に失敗し、世を乱しています。

ハマスが,プーチン発の乱れを利用して動きましたが、混乱を深めるだけです。

金正恩が何をしでかしますかね? 

プーチン、ハマス、金正恩には戦国願望が見え隠れします。

そして彼らを操る習近平・・・何を考えていますかね。

天下普請

幕府を開設した後、家康がしきりに行ったのが天下普請です。

江戸城、名古屋城、大阪城の再建、河川改修・・・など、大型土木プロジェクトが続きます。

天下普請というのは指名された大名が,指名された工区で、自前で、石垣や建物を建設することです。

そして・・・その成果が,その後の幕府内における評価、地位と直結していきます。

戦争・殺し合い・・・は無くなりましたが、大名達の競争は一段と激しさを増してきます。

土木工事の現場が・・・戦場になります。

サバイバルの現場です。

先週の放送で本多忠勝と榊原康政が「俺たちの時代は終った」と互いの傷をなめ合っていましたが、名古屋城の建設現場では,秀吉の旗本・加藤清正と福島正則が「従うのが嫌なら謀叛をせよ」などと物騒な会話をしています。

名古屋城建設では清正と正則が正反対の動きをしています。

「徳川に従って,秀頼を守る」と体制派についた清正は,天下普請に全力投球します。

その姿は名古屋城公園に「石曳・清正」として銅像が残ります。

「俺は徳川の家来ではない」と反体制派の福島正則は,事あるごとに徳川の代官・伊奈忠次とトラブルを起こします。

些細な奉行達の指示ミスを衝いて「問題だ!」と騒ぎ立てます。

イチャモンキー・・・という猿でしたね。

福島隊・広島勢は態度が後ろ向き,やる気に欠けますからチョンボが続きます。

代官から注意されて・・・責任者(家老)が切腹してしまいました。

これに腹を立てた正則は、徳川方の奉行達の指示のミスを衝き、責任者の処分を求めます。

「俺の部下は失敗を認めて切腹した。徳川の責任者も切腹しろ」

無茶苦茶な話なのですが・・・これに家康が応じます。

・・・ということは、問題を大きくして豊臣家臣団と外様大名の結託を怖れていたのでしょう。

福島、加藤、黒田、浅野、細川などに前田、伊達、上杉、毛利、島津などが付けば・・・関ヶ原二回戦になってしまいます。

犠牲になった関東総奉行の伊奈忠次、徳川土木軍団の総責任者でした。

江戸に流れ込んでいた利根川を江戸川筋に追い、更に銚子へと追う大工事を主催したプロジェクトリーダでした。

伊奈忠次の切腹・・・まさに「どうする家康」と悩んだと思いますね。

方広寺の鐘銘

予告編を見る限り、今週は大阪の陣前夜か、それとも冬の陣にまで行ってしまいそうな雰囲気です。

そのきっかけになったのが方広寺大仏殿の落慶法要と鐘銘事件なのですが、「家康がイチャモンをつけて戦のきっかけにした」というのが通説でした。

が、どうも・・・そうではなさそうなのです。

「国家安康 君臣豊楽」という文言が問題になりますが,方広寺を再建する前に秀頼は東寺の金堂を再建しています。

そこの棟札には「国家太平 臣民快楽」の文字があります。

鐘銘の起草を依頼された南禅寺の清韓は,これを参考に、徳川と豊臣に佞(おもね)て「替え歌」というか「本歌取り」をやったのではないかという説が有力になっています。

「国家太平」も「国家安康」も同じ意味です。

「臣民快楽」も「君臣豊楽」も意味には大差ない表現です。

清韓は施主の徳川、豊臣をヨイショしたつもりで「家康」と「豊臣」を鐘銘の文言に採用したのですが・・・大きな失敗は「断りなしに諱(名前)を使うことは失礼に当たる」という常識を破ったことでした。

さらには諱を分断してしまったことです。

「国家康安」とやればまだしも、分断したのは「悪意」と解釈されても仕方がないようです。

そこから「呪いの文言」などという憶測に繋がっていきます。

清韓のやり過ぎというか・・・先走り、エーカッコシーのパフォーマンスでしたが,これをチェックするスタッフが大阪城にいなかったのも大阪方の失策です。

責任者の片桐且元も、清正や正則と同様な軍人です。

賤ヶ岳7本槍の体育会系で文学的センスがありません。

秀吉が育てた文系の官僚達は関ヶ原戦で全員退場処分を受けてしまいました。

さらに、家康からは天海僧正を通じて「国家安康 君臣豊楽 の文字を削り取れば問題を不問にする」と大阪方に示唆しているのですが・・・この条件、内示をした家康の意思をキャッチできる人材がいませんでした。

豊臣家は大阪城の金蔵を空にするほどに寺社の再建に尽力しながら僧や神官といった教養人を自らの味方、スタッフとして活用できませんでした。

真面目一方で不器用な片桐且元は仕方ないとして,大野治長に世間が見えていませんでしたね。

勿論、大野治長程度の人材しか残っていなかった豊臣家に、家康と対抗する力はありません。

そうなれば「豊臣」という公家の立場を利用して朝廷や藤原一門の知恵を利用する方法もあったはずですが、これも使えません。

豊臣には政治ができる人材がいなかった・・・これが大坂の陣を招き、豊臣を滅亡させた原因でしょう。

大臣、関白といった公家筆頭の立場で、しかも65万石の大名として政権を支えていく・・・天皇家の権威を後ろ盾に,徳川幕府を黒幕として支える・・・秀吉なら当然考えました。

朝廷、公家の事情

この事件に不思議なほど公家達が登場しません。

光秀、秀吉を使嗾して信長を殺させ、秀吉を使って公家政治の復権を狙ったのですが,秀吉の死後に政権中枢と疎遠になっていきます。

さらに1609年に猪熊事件という・・・朝廷内のスキャンダルを起こして信頼を失いました。

猪熊という・・・光源氏のような美男子が女官達と次々に関係を持ちます。

これが後陽成天皇の退位、公家諸法度の制定による幕府の管理強化に繋がります。

朝廷の権威が失落していました。

徳川、豊臣の武家達の政治に口出しできる状況にありませんでした。