どうなる家康 第47回 千姫脱出

作 文聞亭笑一

本丸御殿への砲撃、これに最も驚いたのが茶々を始めとした女達でした。

戦、戦争の現場に立つのは初めてですから、目の前で人が倒れ、死んでいくのはショックでしょう。

恐怖感に押しつぶされて戦争継続の意欲がなくなってしまいました。

一方の家康ですが、真田丸での想定外の苦戦に、短期決戦の目論見が外れてしまいました。

30万人の兵と、兵站に雇った作業員の食料調達がままなりません。

長期にわたる包囲戦では兵達の士気を維持するのが難しく、大阪方の反撃に囲みを破られる危険もあります。

その点で、プーチンのウクライナ侵攻も似たようなものでしたね。

短期決戦と本丸・キーウにミサイル攻撃を仕掛けましたが、ゼレンスキーは淀君、秀頼のようにヤワではありませんでした。

猛烈な消耗戦になってしまっています。先が読めない泥沼です。

冬の陣の講和

講和交渉を女性同志にやらせる・・・「かなりの譲歩をしてでも交渉をまとめる」という、家康の意思の表れですね。

家康にしてみれば「大砲の威力が確認できた」というのが収穫でしたが、大阪城を取り巻く堀の存在が邪魔になります。

「堀を埋める」という条件を呑ませれば、後は大阪方の条件を呑む

「そう堀」を埋める・・・と言う条件で合意しましたが、徳川方の解釈は総堀・・・すべての堀、豊臣方の解釈は惣堀・・・外堀でしたから多少のいざこざはありましたが、やってしまった方が勝ちです。

作業員の数が全く違いますから「手伝い」と称して徳川主導で埋め立てが進みます。

二の丸、三の丸も破壊しましたから、大阪方は本丸で過密になります。

これが不満の元になり、講和条件を破る行為・・・堀の掘り返しという条約違反を起こしてしまいます。

いずれにせよ、堀を埋めてしまいましたから籠城戦はできません。

再戦すれば負けるのは必至ですが、そこを敢えてやってしまうのが「意地」でしょうか。

夏の陣

夏の陣というのは、大阪方の自殺行為です。

大阪城に詰めた者たちは「このまま平和が進むといずれ解雇される」とわかっています。

大阪城の金蔵がいずれは枯れます、その時は自分たちの存在感はありません。

武士の意地というのか、「華々しく戦って死にたい」という雰囲気が盛り上がってしまいました。

これがまた家康の読み筋通りでした。

「待っていました!」とばかりに再戦に突き進みます。

淀君、秀頼にとっては望まざる戦になってしまいました。

講和条件で勝ち取った「大阪方の罪は問わぬ」という条件を使って、さらなる好条件の引き出しを狙っていたでしょう。

夏の陣・・・大阪方は籠城できませんから大阪への入り口での野戦をするしかありません。

大阪方は奈良からの大和口、京から淀川東岸を下る道・・・この2ルートに戦力を集中します。

徳川勢も大和口から家康、河内筋から秀忠が進軍します。

いずれも大阪方の善戦で、激戦でしたが、兵力の差はいかんともしがたく、時間とともに大阪方が消耗していきます。

この大阪方の戦闘・・・後藤又兵衛の最後、真田幸村の家康の本陣に突入、木村隼人の活躍などが美化されて・・・軍人の鏡のように褒めそやされます。

とりわけ、西日本の人にとっては、心情的に徳川嫌いですから英雄談として物語になります。

なんとなく肉弾突撃、特攻隊の原点。

野戦部隊が消耗、消滅したら・・・大阪城での守備はできません。

千姫救出

野戦での敗報が伝わると、淀君、大野治長などにとっては「秀頼の命乞い」しか選択肢しか残っていません。

千姫を使者にして泣き落とし・・・と言う最後の手段に出ます。

講談や戦記物では「燃えさかる炎の中を脱出する千姫、その脱出を坂崎出羽守が助けた」「千姫を助けたものには千姫を与えると家康が約束した」など面白おかしく物語にします。 が、実際は大阪城に火の手が上がる前に千姫に堀内氏久という豊臣家の侍が付き添い、門前で逃亡者、捕虜を収容していた坂崎出羽守に、秀忠陣への案内を託したと言うことのようです。

坂崎出羽守・・・後に千姫事件を起こします。

家康が「千姫を助けたものには千姫を与える・・・と言うから決死の覚悟で救出した。

だから千姫は俺のものだ」と主張したとか・・・。

しかし、火傷でケロイド状になった坂崎を嫌って千姫が拒否した・・・云々。

全くの嘘、物語の世界です。

坂崎出羽守というのは、元は宇喜多家の家老でしたが本家の宇喜多秀家と不仲で、関ヶ原では東軍に付き、その褒美として美作津山3万石の大名になっていました。

夏の陣では千姫を救出したと手柄を要求しますが、救出したのではなく案内しただけです。

秀忠はその事がわかっていますから褒美は「1万石の加増」で4万石。

ところが、千姫の再婚先が決まりました。

桑名藩・本多平八郎の孫・本多忠刻の元に輿入れしますが、その時の化粧料(加増)が10万石・・・これを聞いて坂崎に欲が出ましたね。

「助けた俺が1万石なのに、あんな若造がどうして10万石か!」

騒いだ挙句にお家取潰し・・・それを面白おかしく物語にしたのが歴史書? 絵双紙? 芝居?

ついでですから千姫のその後を追いかけてみます。

大阪落城、秀頼・淀君自決・・・で一件落着ですが、家康は秀頼の息子・国松と娘を探し出し処刑しようとします。

これに猛反対したのが千姫でしたが、将来誰かが傀儡として担ぎ上げることを警戒して国松は処刑されます。

娘の方は「私の娘だ。仏門に入れるから生かせ」と千姫が主張し、鎌倉の東慶寺に入れます。

この娘が成長して天秀尼・・・東慶寺の住職になります。

東慶寺は後々まで縁切り寺として有名です。

その後の千姫ですが、栄転した本多忠刻とともに桑名から姫路へと移ります。

本多忠刻は平八郎の孫ですが、母親は家康の長男・信康の娘の熊姫です。

ですから家康の曾孫でもあります。

家康ファミリーとして尾張、紀州、水戸の御三家に次ぐ・・・身内でもありました。

それもあって、忠刻が亡くなって出家すると江戸城に戻り、大奥の重鎮として君臨します。

弟の将軍・家光が「姉様、姉様」と何かと相談をしていたようです。

徳川将軍家は家康、秀忠、家光の三代で基盤を築き上げますが、鎖国、参勤交代など260年の安定を完成させたのは家光です。

それを大奥で支えていたのが乳母の於福・春日局と姉の千姫、

なんとなく・・・安定政権は女上位が良さそうです。